星新一と
森鴎外が縁戚関係にあるのはよく知られている。星の大伯父が鴎外にあたるのである。
星新一の父は星製薬の創業者である
星一であり、星一の妻、つまり星新一の母は
小金井せい。
小金井せいの両親は日本解剖学の権威
小金井良精と
小金井(旧姓森)喜美子。森喜美子が森鴎外の妹なのであった。
この関係については、昔、初めて知ったときに別のブログで書いたことがある(今読むと、とても恥ずかしい)。星一と阿片王
里見甫との関係があったのかなかったのか、という内容である。
LINK > 星新一、森鴎外、小金井喜美子 - 2007.5.22さて、鴎外の娘である作家の
森茉莉が書いた星新一についてのエッセイを最近読んだ。
『森茉莉全集 第六巻』に収録されている、
「ドッキリ・チャンネル」という『週刊新潮』にかつて連載されたエッセイのひとつだ。
タイトルは「星新一の「祖父・小金井良精の記」について」。
鴎外の弟である
森篤次郎が亡くなったとき、死後解剖に立ち会った小金井良精(というか解剖の実行医)と鴎外の対照的な姿を記した星新一の著作『祖父・小金井良精の記』に、森茉莉がちょっと愚痴っている。
鴎外とともに医者であった篤次郎の死は、かかりつけの医者の痛恨の不手際によるものであったから、医師鴎外にとってはなおさら悲痛なものがあった。鴎外が死体解剖でその不手際の事実を目の当たりにしたとき、少なからず動揺して卒倒しそうだった。そして小金井良精のほうはというと冷静そのものであったと書くのは取材不足なんじゃない?と森茉莉は云うのである。解剖医の立場と兄の立場、ということである。
= 参考文献 =
森茉莉『森茉莉全集 6』(筑摩書房)
テーマ:歴史上の人物 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2009/07/06(月) 00:36:41|
- 作家|星新一
-
| トラックバック:0
-
| コメント:1
幸田露伴に弟がいるとは知らなかった。
しかも、それが大学教授ともなった歴史学者だったとは。
幸田露伴の実弟の名は、幸田成友(しげとも)。
明治29年に東京帝国大学国史学科を卒業し、後に東京商科大学(現一橋大学)や慶応大学で教授をつとめた。
専門は近代経済史。
だがその名を最も有名にしているのは、大阪市史の編纂である。
どのような経緯かはわからないけれど、幸田成友は明治34年、28歳の若さで大阪史編纂長に抜擢される。
明治42年までその職を務め、完成した『大阪市史』(大正3年?)で成友が大阪を表す言葉として記したのが「天下の台所」。
大阪が「天下の台所」と呼ばれるようになったのは江戸時代ではなく大正時代であるという、教科書のいい加減さがよくわかるエピソードなのである。
さらに、「天下の台所」という言葉を広く世に知らしめたのは、大正12年から昭和10年まで大阪市長の任にあった関一(せき・はじめ)だったという。
そして関一と幸田成友は小学校の同級生だったとか。
ついでに云えば、幸田露伴の長兄成常は、相模紡績(現カネボウ)元社長。
若き頃、技師として赴任した北海道から、着の身着のままで上京したいきさつを書いた露伴の悲惨な放浪記のイメージが強いから、兄弟のそうそうたる活躍ぶりに大変驚いた。
= 参照 =
『産経新聞』(2009年1月9日付)
テーマ:歴史上の人物 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2009/01/11(日) 00:53:16|
- 作家|幸田露伴
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
星新一は、作家、元星製薬代表取締役社長(1926-97)。
【交友関係】
―東京高等師範付属中学校時代
醍醐忠和
副島有年 大蔵省
北代禮一郎 一高
越智昭二
辻康文
今村昌平
児玉進 児玉源太郎陸軍参謀総長の曾孫
村松剛 評論家
槌田満文 東京新聞文化部記者。同紙連載『気まぐれ指数』にて親しくなる
= 参考文献 =
最相葉月『星新一 1001話をつくった人』(新潮社)
テーマ:歴史上の人物 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2008/07/08(火) 00:39:27|
- 作家|星新一
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
後藤新平は、明治―昭和期の政治家、官僚、医師(1857-1929年)。
【星一と正力松太郎】
最相葉月『星新一 1001話をつくった人』(新潮社)を読んでいたら、
星新一の父・星一の経歴を紹介するなかで後藤新平の名がでてきた。
20歳で渡米した星一は、コロンビア大学に在学中、
在米日本人向けの新聞『日米週報』を発行する。
明治23年(1899年)のことである。
詳細は本書に書かれていないが、
その前後、新聞発行の資金を集めるために一時帰国した星一は
杉山茂丸(夢野久作の父)の紹介で台湾民政長官後藤新平に会い、
5000円の資金援助を受けた。
以後、星と後藤は深い信頼関係を結ぶこととなる。
このエピソードを読んで確か・・・と思い、そのまま読み続けていくと、
本書にその話も紹介されていた。
『読売新聞』の「中興の祖」とも云われる正力松太郎に
巨額の資金援助をしたのも後藤新平であった。
どの本を読んでこの話を知ったかは忘れてしまったけれど、
強く印象に残った逸話だった。
後藤の支援によって正力松太郎は、大正13年(1924年)、
当時苦境に陥っていた読売新聞社の経営権を取得し、社長に就任。
そして、現在の大部数発行紙となるわけである。
その頃、後藤は山本権兵衛内閣の内務大臣を辞職した後、
社団法人東京放送局初代総裁を務めていた。
この内務大臣時代に、かの有名な、
関東大震災後の東京復興計画を立案している。
星一と正力松太郎への資金援助は、どちらも新聞発行という目的があった。
単に、後藤の交友関係の深さからのものなのか、
新聞というものへ特別な思いがあったのか、それはわからない。
ただ、何の実績もないであろう星一に5000円という巨額のお金を渡し、
内務省での部下だった正力松太郎のために
自宅を抵当に入れてまで資金を調達した後藤とは、さていったいどんな人物なのであろう。
= 参考文献 =
最相葉月『星新一 1001話をつくった人』新潮社
- 2008/07/03(木) 20:18:52|
- 政治家|後藤新平
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
北吉(きた・れいきち)は、北一輝の弟。佐渡島出身。戦前戦後、衆議院議員。自由党。
= 経歴 =
1885年(明治18年) 誕生
佐渡中学校卒業
早稲田大学政治学科入学
哲学科へ転科
卒業後、土浦中学校・東京府立第三中学校教師
※土浦での教え子に岡野保次郎(のち三菱重工業社長)、
高杉晋一(のち三菱電機会長)
(大正2年9月) 早稲田大学哲学科講師
(大正7年4月) 辞職し留学(ハーバード大学・ベルリン大学)
※三土忠造の紹介で男爵岩崎小弥太に資金援助をうける
(大正15年) 留学記『哲学行脚』出版
(昭和5年) 東京府第五区から衆院選出馬、落選
(昭和11年) 新潟県第一区から衆院選出馬、当選(以後連続当選)
(同年2月26日) 二・二六事件(のち、兄北一輝処刑)
※戦後、自由党設立に奔走し、日本自由党結成(昭和20年11月)とともに顧問となる
1947年(昭和22年6月) 公職追放
1951年(昭和26年8月) 公職追放解除
1952年(昭和27年10月) 衆院選に当選
1961年(昭和36年) 死去
= 参考文献 =
竹内洋「革新幻想の戦後史」(『諸君!』2007年12月号・2008年1月号)
- 2008/04/30(水) 22:04:16|
- 政治家|北吉
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0